About Me

0歳
香川県に産まれる、水瓶座。

 

5歳
両親が買ってくれた12色の色鉛筆の色に感動して、毎日絵を描きまくる。
でも、幼稚園で24色の色鉛筆を持ってる子を見て、落ち込む。

 

小学校3年
みんなに歌が上手いとおだてられ、NHKのど自慢大会に出る。

結果は鐘一つ、人生で初めての挫折を味わう。

 

小学校6年
卒業アルバムに「大人になったら立派なサラリーマンになりたい」と書く。

 

中学1年
数学、物理、科学がまったく理解できず落ち込む。その上、体が細くて小さいこともあり、いじめられる。

 

中学2年
体が早く大人のように成長する男子と、僕のように小学生のままの体型の子の差が歴然としてくる。

体が細くて小さかった僕は、みんなにバカにされるし、目が合ったというだけでよく殴られた(涙)

体育や運動会の日は学校が火事にでもなればいいと思った、そして真剣に自殺を考える。

 

中学3年
あと1年でみんなと離れられると思い、高校の受験勉強に励む。

 

高校1年
バカも勉強すればなんとかなるもので、

先生に「お前では無理だ」と言われた高校に入学する。

 

高校2年
車のデザイナーになろうと決心する。

自分が行きたい大学の過去の入試試験を取り寄せてトライしてみるも、1問も解けないことが判明。

 

高校3年(春)
希望する大学に推薦入学制度があることを知る。

早々に担任の先生に推薦状を依頼するが

「お前の成績では無理だ!!」と断られる。

 

高校3年(夏)
希望する大学が、四国4県から、まだ誰一人として入学していないことをつきとめ、
「お願いします、僕を四国の代表にして下さい!!」と、今度は校長先生に直接お願いに行く。

 

高校3年(冬)
推薦入学試験の面接の時にも

「私を四国地区の代表にして下さい!!

私が入学することで四国からの入学者数に1と書くことができるんです。

どうか私をその1にして下さい!!」と懇願したこともあり見事合格(笑)

 

大学1年(春)
遠~~~い仙台まで来てしまったので、

自分の廻りに、今までの「ダメな僕のことを知ってる人は誰もいないんだ!!」と思った瞬間、

メチャメチャうれしくなった!!

これからが僕の新しい人生のスター トだとワクワクした。

 

大学1年(秋)
全国からカーデザイナーを目指してきている学生の、あまりの才能の凄さに愕然とする!!

自分には無理だと思った。
そして、2年生になる前にカーデザイナーの道を諦める(涙)

 

大学2年
将来の目標がなくなったこともあり、以前から好きだった映画研究部に入る。

部室は1つの部屋を映画研究部と写真部が半々で使っていた。

同じ部室だったので、ついでに写真部にも入った。
これがきっかけで、映画作りと写真の面白さにはまり込む。

 

大学4年
その結果、留年することになった。

でも、青春をもう1年余分に味わえると思ったらうれしかった。

これが青春時代の最後の年だと思って、アルバイトで貯めたお金で全国に旅に出る。

お陰で今まで知らなかった色んな風景に出会えた。

この旅がカメラマンになって役に立つとは思ってもいなかった。

 

22歳
大学卒業を間近にして、先輩や友人に

「就職しないでカメラマンになろうと思ってるんだ」と相談する。

「好きなことを仕事にしたら苦労するよ。

仕事は仕事で好きな事は趣味でやるのが一番楽しいんだよ」

と言われ、その通りだと納得する。

好きな写真は趣味として、みんなと同じように会社に就職しようと心に決める。

 

23歳
面接が面白かった、というだけの理由で、

仙台の印刷会社の企画室に入社できた。

新入社員歓迎会の席で部長の前でゲロを吐く、タイムカードは押さない、ネクタイは締めない、

などなどで会社の皆様に大変御迷惑をかける。

 

24歳
1年が経ち、仕事も覚えた頃、

みんながやりたくない企画の仕事がほとんど自分に回ってくるようになる。
どうせ負ける企画競争なら、と自分が楽しめるアイデアだけ考えた。

 

ところがどういうわけか僕の企画が、会社設立以来負け続けの大きなコンペに勝ってしまう。

僕に担当させた上司も驚いていたけれど、自分が一番びっくりした(笑)

会社の売り上げにずいぶん貢献し、上司の皆様に好かれるようになる。

 

ところが、やっぱりカメラマンになりたいなぁという気持ちが、日増しに強くなった。

 

25歳・春
お酒を飲むと「よし、やっぱり会社辞めてカメラマン目指そう」と辞表を書くけれど、

酔いが醒めた朝になると、会社を辞めて生活を一からやり直すことがとっても不安になり、

辞表を破いて捨てるという日々を送る。

そんなある夜、変わった夢を見た。

 

夢のなかの僕はすっかりおじさんで、

医者に「あと、半年の命ですね」と宣告され

「どうしてあの時、本気でカメラマンになろうとしなかったんだろう、あと半年じゃあ何もできない」と病室で泣き崩れている。

ふと窓のところを見ると、自分は天使なんだという人が現れて

「もう一度人生やり直せることができたらやり直してみたい?」と聞いてきた。

僕は「はい、あと半年の命って言われて初めて気が付きました。

本当は何をやりたかったのかということが。

やり直せるものだったらやり直したいです」と懇願した。

彼は「その代わり今日までの記憶は全てなくなるよ、いいね」と言って消えた。

 

目が覚めた時、もう一度やり直せるんだと思った。嬉しかった!!

その日の朝、辞表を書いた。

 

付き合ってた彼女に「結婚して一緒に東京に行ってほしい」と頼む。
ところが彼女は「ゴメンナサイ、実は本当は好きな人がいるんです。

彼に冷たくされて寂しい時にあなたと会ってたの。だから東京へはいけない」と告白される。
「何だよそれ!!」僕の頭の中は真っ白になった(泣)

女性不信に陥りながら、東京の写真専門学校に入学する。

大学を卒業するまでは勉強することが大嫌いだったのに、

目的がはっきりして入った学校の勉強は楽しくてしかたなかった。

 

25歳・夏
彼女の事を忘れる意味も兼ねて1ヶ月インドを旅する。

の旅で人間何やっても生きていけるんだ!!と強く思った。

 

26歳・春
勤めていた時に貯めていたお金があっというまに底を尽き、授業料が払えなくなって専門学校を中退する。

 

26歳・夏
ラッキーなことに、2ヶ月間タダでヨーロッパを旅することが出来た。

そこで世界中から来ている人達と会っているうちに、自分は日本人でありながら日本の事を何も知らない、ということに気付かされる。

ヨーロッパの旅から帰ってから、プロのカメラマンになるには

アシスタントになることが一番の近道だと思って、数々のカメラマンの事務所に電話をしてみたけれど

「26歳・未経験」ということで全て断られる。

そんな時、専門学校の先生の紹介で、あるカメラマンのセカンド・アシスタントになることができて大喜びする。

 

26歳・秋
アシスタントについたカメラマンは物撮り専門の方で、

毎日が宝石、カメラ、オーディオなどの撮影だった。

アシスタントに採用されたことでこれで、プロになれると気楽に考えていたけれど、

何も知らない状態で入ったため、来る日も来る日も怒鳴られっぱなしの日々だった。

毎日張り詰めた緊張感漂う現場で、3ヶ月経った頃には、

頭の前の方は白髪で真っ白になり、胃は鉛のようになっていた。

 

もう自分には無理だと思って紹介していただいた先生に辞めたいと相談する。

「あのねぇ、『石の上にも三年』というだろう。今やめると後悔するから三年は続けなさい」と説得される。

でも、4ヶ月経った頃には、もう朝起きるのが恐くなるほど身も心も参っていた。

 

結局、カメラマンにお役に立てなかったことを謝り、辞めさせてもらった。
プロの世界は本当に厳しく「好きなことを仕事にしたら苦労するよ」と言った先輩の言葉が蘇った。

自分はカメラマンには向いてないんじゃないか、と自問自答する日々が続く。

 

ところが、街に出て写真を撮っているとやっぱり楽しい。
「あっそうか、自分は人を撮るのが好きなんだ」ということに気付く。

 

27歳
「そうだ、インドで撮った写真を持って行こう」と出版社巡りをする。

 

当時は、今のようにイメージ写真だけでも才能を認めてくれたりする編集者は少なくて

「インドの写真見せられてもねぇ、モデル撮ったのないの?」と言われ続ける。

 

そこで、モデルを撮った作品作りのために100万円貯めようと決心する。

毎日どうやったらお金を使わずに生活できるかと考えるのが楽しくてしょうがなかった。

 

気分は明るいけれど貧乏が服を着て歩いているような生活がず~~っと続く。

会社時代の同僚が東京に出張に来た時によくおごってくれた。うれしかった。

 

飲みながら「○○はボーナスで車買い替えたぞ、○○は夏に家族でハワイだって。

今からでも遅くないから会社に戻ってこいよ」と誘ってくれる。
僕の返事は「そんなことよりタバコ1本ちょうだい」だった。

この頃の僕にとっては新品のタバコは宝物だった。

 

28歳
女の子の写真コンテストがあるのを雑誌で知って、

原宿で女の子に「モデルになってください」と声をかける。でも怖がられて断られる。

 

当時は、仕事ない、お金ない、彼女いないの三ないづくしの人生まっしぐらで、

目が血走ってたから(笑)今思えば当然の事です。

 

彼女の家までついて行って今度は御両親を説得する。

コンテストの件を話して、やっとのことでOKが出る。

ところがなんと、彼女を公園で撮った写真がグランプリを獲得した。

副賞はグァム・サイパン旅行と一眼レフカメラだった。

カメラは即日お金に替えた(笑)
モデルになってくれた本人と御両親も本当に喜んでくれた。

でも僕が一番嬉しかった。

 

29歳
アルバイト先の人の紹介で初めて撮影の仕事をする

ファッション誌の読者プレゼントのページで小物の撮影だった。

カメラマンのアシスタントを経てフリーになったカメラマンだったら

「勘弁してよ~」と言いたくなる撮影だったと思う。

でも、毎日毎日腰をかがめて、手の指紋が見えなくなるくらい皿洗いをしていた僕には、

写真を撮ってお金をもらえるということがもう嬉しくて嬉しくて、大喜びしながら撮影した。

 

しかし、スタジオワークがまったくわからなかったので、

この頃知り合った、まだアシスタントもいなくて一人で仕事をしているカメラマン数人に
「お金はいりませんので、撮影のアシスタントやらせてもらえないですか?」とお願いした。

二人が「本当にお金払わなくていいんだったらいいよ。」とOKしてくれた。

月に2、3回だったけど、人物撮影のアシスタントは見るものすべてが初めてで、本当に楽しかった。

 

30歳
やっとの事で100万円が貯まり、モデルを使って作品撮りをする。

同じ撮るならと当時売れっ子のモデル二人を頼んだら、それだけで40万が吹っ飛んだ。たった一日で!!

 

何も知らなかったのでモデルクラブの言い値でOKしていた。

衣装レンタル代、ヘアメイク、ロケバス、スタジオ代、フィルム代で

1日で三年間必死で貯めた100万円が吹っ飛んだ。泣きそうになった!!

 

その作品を持って出版社に営業を開始。

行った全ての出版社から撮影依頼が来た。

今度は嬉しくて泣きそうになった!!もうアルバイトをしなくてもよくなった。

 

31~36歳
ある日、某有名アーティストのファンクラブから会報の撮影依頼が来た。

「2種類の服でアップと全身の2カットづつ撮ってくれればいいから」ということだった。

 

会報だからもちろん経費も少なかった。でもせっかくのチャンス。

撮影料の赤字など関係なく、その当時自分が出せるだけのアイデアで、

2カットと言われていたのを10カットくらい撮りまくった。

当然ものすごい出費になった。でもすごく満足できた。

 

数多くのカットを撮ったので、ファンクラブの会報に使った写真以外はレコード会社に届けられたらしい。

ところが、その写真が担当ディレクターの目に止まり、いきなり某有名アーティストのCDジャケットの撮影依頼が来る。

本当にビックリした。嬉しかった!!

日々、雑誌、写真集、カレンダー、CDジャケット、広告の撮影と仕事が増えた。

カメラマンになるという夢が叶い、有頂天になる。

 

37~38歳
今までうまくいってた仕事も色々なトラブルが多くなり、レギュラーの仕事も少しづつなくなっていく。

「あの編集者はダメだ」とか「あのデザイナーはわかってない」とお酒を飲んでは愚痴る毎日。

 

アシスタントも自分が気に入らないと、すぐクビにするようになる。

税務署の調査で税金の追徴金を1000万円近く支払うことになる。

さらに、失ったお金を取り戻そうとおいしい儲け話しに乗り、多額のお金を失う。

起死回生に写真集を自費出版するが、まったく売れず1000万円近い借金をする羽目になる。

そこに今度は返品されてきた写真集に200万円近い税金が課せられた(泣)

 

仕事も人間関係も家庭も体調もすべてがおかしくなり、病院通いが始まる。

病院を転々とするなか、医療ミスで体にものすごいダメージが残る。

人生のすべてを打ちのめされた気持ちになり「自分はこんな目に会うために会社を辞めてカメラマンになったのだろうか」

「あんな夢みなきゃよかった」と落ち込む日々が続く。

 

そんな中、あるきっかけで「あっそうか、すべての原因は自分だったのか!!」と気付く。

今まで自分に降り掛かるあらゆる事柄を、全て他人の責任にしていたということに。

そう思って今までの出来事を見直してみると、

いったいどれだけの人に嫌な思いをさせていたのかということに気がついた。

 

僕の声など聞くのも嫌になったはずの数多くの人たちに、

読まれるかどうかわからないけれども心からお詫びの手紙を書いた。

手紙をかいているうちにその当時の「オレが、オレが」という自分のわがままさが蘇ってきて、

みんなに本当に申し訳ないという気持ちでいっぱいになった。

 

病気になって初めて、普通に歩ける、お風呂に入れる、食事が出来るという、

毎日ごくごく普通に生活できる事が本当はとても幸せな事なんだと思うようになれた。

 

何か嫌な目にあった時に「どうしてこんな目にあわなくちゃあいけないんだ!!」と、

いつも怒りを外に向けていたけど「いったい何を学ぶために、自分はこんなに辛い目にあっているんだろう」

と考え方を変えてみたらすべてのことが変わり始めた。

今までの失敗とか嫌な出来事は、

僕にとっては自分が変われるいいチャンスなんだと思えるようになった。

 

39歳~42歳
あるアーティストの撮影のために行った公園で真っ赤なポピー畑に遭遇する。

カメラで覗いたその時、その色に体じゅう戦慄が走った。

 

それ以来、仕事の合間をぬって全国の花の写真を撮り歩くようになる。

 

43~44歳
写真展をやってみたくなり、ここで開きたいと思った会場にお願いに行くけれど、

僕に知名度のないこと、大きな賞をとってないこと、スポンサーがいないこと

などなどの理由ですべての会場に断られる。

 

もうダメかと諦めていたら、最後に思ってもいなかった素晴らしい場所が見つかり、

自分の思い通りの写真展を開催することができた。

花の色だけをテーマにした写真展は3週間の開催中に7000人近い人が見てくれた。

その時に多くの人がアンケートを書いてくれた。

 

写真展を見てくれた関西、九州、北海道や海外の人までもが

「ぜひ私たちの街でもやって欲しい、友だちに見せたい」と言ってくれた。嬉しかった。

 

多くの人が写真を見て「幸せな気持ちになりました、ありがとう」

「落ち込んでた気持ちが元気になりました」「癒されました、ありがとう」と、

とにかくみんな心から写真を喜んでくれて「ありがとう」とまで言ってくれる。

 

アンケートを読みながら僕は胸が熱くなり、とても心が満たされた。

こんな気持ちになれたのは生まれて初めてだった。

自分が撮った写真が自分以外の人に喜んでもらえることで、自分自身の心も満たされるということに気付くことができた。

すばらしいことに気付いたにもかかわらず、お金の事など考えないでやりたい放題に大がかりな展示をしたおかげで、

写真展でかかった総経費が500万円を超えてしまったことを知り、落ち込んだ。また借金をした。

 

ところが写真展が終了してから、写真を買いたい、使いたい、

というオファーが次ぎから次ぎへと来るようになり、今度は驚いた。

 

それはCDジャケット、ファッションメーカーの広告、

そして、新しく建つ病院の各病室や待合室など

あらゆる所に飾りたいということで500点も使われたり、

新築マンションのエントランスの床一面に埋め込まれたりと、

今まで自分が考えもしなかった仕事が次から次へと舞い込んできた。

500万円の借金はあっという間に返済することができた。

 

仕事というのは、自分でやって、できるだけ多くの収入を得て、

そのお金で好きなことをしたり、欲しい物を買ったりできる。

だからできるだけ楽で収入が多い仕事を選ぶのは当然だと考えていた。

 

でも、写真展に来てくれた人たちの「ステキな写真を見せてくれてありがとう」という多くのアンケートを見て、

「あっそうか」と気がついた。自分の仕事を通して人に喜んでもらって、

そのご褒美として「ありがとう」という意味のお金を貰えるのか?と思えるようになった。

 

アーティストとかスポーツ選手が、みんなビックリするくらい収入があるのは、

それだけ多くの人々に喜びと感動を与えているからなんだろう…と。

 

45~47歳
この数年間にいろんな経験をしたおかげで、以前一緒に仕事をやっていた人達とまた仕事ができるようになったりと、

とても充実した日々を送れるようになった。

 

48歳~
今までに自分がカメラマンという仕事を通して経験してきたことを、

「これからカメラマンになりたいと思ってる若い人達に役に立てることは出来ないだろうか?

何かいい方法はないかなぁ~」と考え始めた。

想いは叶うもので(笑)、今では、カメラマンという仕事をやりつつ、

ワークショップをやらせてもらっています。(ワーク ショップに難しての詳しい事は、HPをご覧になって下さい)

自分の経験したことが、夢を叶えようとしている若い人達のお役に立てているのなら、こんなに嬉しいことはありません。
今のところ、みなさん大変喜んでくれています(多分)

 

今までの人生を振り返ってみると、良いことも悪いことも全てに理由があって、

その時の自分にとってはベストタイミングで起こっていたような気がします。

私には、自分の夢を追って生きるという人生ゲームのほうが、

そのスリルと達成感において、TVゲームよりず~~っと面白いと思える、今日この頃です。